本神社は、保良の京の時代、近江国(現在の滋賀県)の多賀大社より、伊邪那伎命・伊邪那美命の二柱の神様を吉和の里にお迎えし、吉和に幣多賀宮が創建されました。
天文年間(室町時代)に、尾道において烏須井八幡宮にて氏子分離の争論が起こり、吉和の民は御幣を持ち帰り、幣多賀宮に八幡大神を合わせてお祀りし、その後、当社は幣多賀八幡宮となります。
宝永5年(1708)に現在の本殿(尾道市重要文化財)が天保十四年(1844)旧拝殿が再建されます。
明治6年の社格改正の際に村社となり、名称も八幡神社になりますが、尾道西宮として広く信仰を集めてきました。
また、昭和8年には「吉和の塩田の廃止」に伴い吉和塩浜にあった塩田の守り神であった湊神社とその境内社が八幡神社境内に遷座されました。
近年は、八幡神社に地名である吉和をつけて吉和八幡神社と呼ばれています。現在、拝殿を再建中です。 ※現在幣多賀宮の創始について調査中です。
建武の乱において、足利尊氏が九州より京に攻め入る際に戦勝祈願のお参りをされ、祈願文を奉納されたと伝えられています。吉和の氏神に参拝した事を喜んだ吉和の漁師は京へ向かう水先案内をし、室町幕府開設に功をなし、吉和の漁民には褒美として御座船の形を独占的に使用することが許されると同時に、日本全国の漁業権を得ます。(その結果、吉和の漁師は陸に家を持ちながらも、現在の遠洋漁業に近い数か月~半年の長期間漁に出ることになります。ここに吉和独自の家舟が誕生します。)昭和40年代まで瀬戸内の漁師は、足利の軍船の形をした吉和の漁船を見たら、漁場を明け渡す習慣が残ってました。この時漁師が喜んで踊ったされる「吉和太鼓踊り」は、広島県の無形文化財で隔年で足利尊氏に縁の深い浄土寺に奉納されます。奉納に際しては、神社境内にて練習をし当日の朝に神社にて安全祈願祭を行い出発しています。
戦国時代には小早川隆景が戦勝祈願をされています。これも吉和の氏神様に参拝することで、武装漁民団であった吉和の漁師を味方につける同時に、吉和の漁師を仲介人として村上水軍との関係を深めようと接触したと言われています。吉和の漁舟の中には武器を収める場所が作られており、海賊と戦うために弓の練習をした射場が現存しております。
江戸時代末期には、頼山陽も度々ご参拝になっております。頼山陽は竹原から尾道の商人に対して講義に行く道中、神社に参拝し休憩されました。 また、尊王攘夷・倒幕運動が盛んな折には、長州藩を始めとする脱藩浪士を宿泊させ、支援しておりました。
厄落としは、神前で祈願した後、大切にしてきたものやいつも身に付けているものをわざと落とし、厄を落とします。吉和では、昔から厄年の人が歳の数だけお餅をもって参拝し、八幡神社・境内末社にお供えする習慣があります。神様に大切なお供え物を捧げるのです。
1月4日、参拝の方が境内からいなくなるとどこからか多くのカラスが現れ、この厄落としの餅をくわえて遠くに飛び去って行きます。カラスが厄落としを手伝ってくれるのです。新年に歳の数とは言いませんが、いくつかの厄落としのお餅を境内末社にお供えしませんか。ちなみに日本神話では、八咫烏(やたがらす)という三本足のカラスが登場し、「導きの神」「太陽の化身」とされています。
百度参りとは、神様に百回お参りして祈願することですが、自宅から神社まで百回お参りすることは大変です。そこで、神社にある百度石と拝殿の前を百回往復して祈願します。
さて、吉和では少し違った百度参りが行われています。百度石と拝殿の往復ではなく、拝殿を百回周るのです。また、一人で百回周るのではなく、一緒に参拝した人との合計で百回周ればいいということになっています。これは、時間短縮のような気もしますが、本当は、親戚知人ができるだけ多く集まりみんなで力を合わせて難局に立ち向かうということなのです。
吉和の八幡神社の境内には、八幡神社の御社殿以外に小さなお宮(境内末社)があります。拝殿に向かって右(東)から、平山稲生神社、白髭神社、若宮石土神社、拝殿、湊神社、沼名前恵比寿神社(ぎんおんさん)、塩盛(守)稲荷神社(しおもりさん)、石鎚神社 、境内の外(境外地)東側に艮神社、西側に厳島神社があります。それぞれ正式に神様を分配(分けてお祀りする)したものです。吉和八幡神社には、26柱の神様がいらっしゃいます。ですから、吉和の八幡神社をお参りすれば、26柱の神様のおかげがあります。